リタイア後の人生にとって必要なものとして言われるものがいくつかあります。
- 健康
- お金
- 生きがい
- 趣味
- 家族
- 友人関係、社会とのつながりなど
ところで、よく考えてみると、これらの要素は現役のサラリーマンや主婦などにとっても重要なものばかりです。
これらの個別要素を考える以前に、良い人生とは何かについても考えようと思います。
最近、養老孟子(ようろうたけし)の言葉が注目を浴びています。
NHKの「あおきいろ」という5〜10分の子供番組の中で、「おしえて!先生」という、子供からの質問に大人が答えるコーナーがあります。
Q10歳のたろうくんからの質問
いい人生ってなんですか?
A 養老孟司
人生は、今では100年くらいあるのに、それが人生という一言、いわば一秒くらいになってしまうことになります。それが言葉の怖いところです。
まず、良い人生と決めるのは誰でしょうか?
例えば私は84歳です。
私の人生が良かったのかどうか自分で考えるとまだ結論が出せません。死んだら結論が出るのか、その時には私はいませんから、良い人生だったかどうか決められるのは死んでいる私ではない、生きている人だけです。
では、良い人生かどうか決められるのは自分以外の人だけかしら、それも変ですね。自分で決められるのはどう生きるか、つまり生き方だけです。
私自身といえばその時まで必要なことをやり、時間があれば本を読んだり虫採りをしたり、つまり好きなことをする。
好きなことをしているときは無心になります。森の中で無心に座っているとそれまで見えなかった虫が見えてくる。時間が過ぎ去るのを忘れ、「良い」人生なんて考える暇はありませんでした。
あぁしよう、こうしよう、良い人生を送ろう、そんなことは思わずに目の前の必要な作業をする。いつもとは言いません。時々無心になれる好きなことができれば良い人生なんじゃないでしょうか。
養老孟司先生の生き方から学ぶもの(ステラNet)
養老先生は、小林秀雄の著作の中では、晩年の「本居宣長もとおりのりなが」に特に惹ひかれるとおっしゃった。その理由が、いかにも養老先生らしかった。
本居宣長は、医者をしながら、「古事記伝」などの著作を世に問うた。医業は、いわば「世間」とつきあう上での生業で、それと自分の生涯の仕事をうまく両立させた。そのような世間との距離感が、養老先生ご自身に通じると感じた。
本居宣長が仕事の場とした「鈴屋」(すずのや)。養老先生は、「はしごで上るでしょ。その後、はしごを引き上げてしまえばいいんだよ」とうれしそうにおっしゃった。そうなれば、もはや世間と没交渉になる。
養老先生にとって、本を書いたり講演をしたりするのが、世間とつき合うこと。一方、情熱を注いでいらっしゃる虫の研究は、本当に自分が好きなこと。その両方のバランスをとっている生き方を、本居宣長に重ねているように感じた。
解剖学者の養老孟司さんは「コロナと『ヒトの壁』」と題して講演し、コロナ禍で問われることが多くなった「良い生き方とは何か」を切り口に、戦後日本の都市化がもたらした社会の問題点などについて語りました。(Reライフフェスティバル2022春)
若者が「良い人生」を知りたがるわけ
新型コロナ以来、特に若い人からよく受ける質問がある。「良い人生とは何でしょうか」。NHKの番組で小学生から質問され、それとは別に高校生からも同じ質問を受けた。
生きるとはどういうことか。ああいう病気がはやって死が日常に入り込んでくると若い人が「良い人生、生き方とは何か」と考えるが、それは私が答えることじゃない。
古今東西、昔から今まで欧米、アジアに限らず、日常的な生き方を説くのは宗教の役割だった。良い生き方だったら、私に聞くべきじゃない。本来お坊さんや神父さん、牧師さんに聞いてほしい。
ブータンでは自分の尊敬するお坊さんを先生にする。誰でも一生のうちに色々な問題にぶつかり、相談する相手が必要なことがある。かかりつけのお医者さんと同じようにかかりつけのお坊さんに相談する。宗教はその役割を果たしてきたが、現在、世界中で宗教が力を失ってきた。
近代化、現代化はもともと人の中にあるものを無視している。若い人が「良い人生とは何ですか」と聞くのは、その反動だと思う。
新聞報道によると昨年は統計をとり始めてから日本で最低の出生数になった。僕はずいぶん前から「人が生まれない社会は変だ」と言ってきた。田舎では子どもが増えるが、都会に来ると減る。これは全世界的な傾向で、先進国が人口減少に転じているのは都市化のせい。
物理的に子育てできないだけじゃなく、気持ちのうえで子どもが評価されていない。それを一番よく示すのが自殺。10~30代の日本人の死因はトップが自殺。若い人が死ぬような社会を我々は一生懸命つくってきた。少ないんだから生まれた子は丁寧に育てなきゃいけない。
小学生の時代から生き方に悩んでいるということは、非常に生きづらい世の中をつくってしまった。大人はそれを反省してない気がする。「なんで若い人が死ななきゃいけない? 」と言うと、みんな色々な理由を挙げるが、そう簡単じゃない。人のすることに簡単な因果関係で説明できるようなことはない。
裏にある考え方が問題。都市化してくるとどうしても頭でものを考える。若い人が全て言葉になる、言葉にならなきゃだめだと思ってしまっている。
「死」について問われた孔子、その答えは
若い人を説得するのは非常に困る。高校生ぐらいに自殺の話をすると「なんで死んじゃいけないんですか」と必ず聞いてくる。
返事に困る。その質問の裏には「言葉による説明があるはずだ。なきゃいけない。それがないのに死んだらいけないというのはおかしいんじゃないか」という前提がある。
死ぬとはどういうことか。人間の世界が始まって以来、人が考えてきた。
孔子も同じ質問を受けている。孔子はそれを上手に言い返す。「生きているとはどういうことだかわからないのに死ぬことがわかるわけないだろう」。
体を使えば言葉の問題点が見えてくる
戦後は色々な権威を潰してきた。政治家、先生。古い考え方を封建的と言ったが、先生は偉いと言うと、そんなの封建的だとなる。「何々だから、先生は偉い」と言わなきゃいけない。
そういう世界で、今の若い人が混乱を極めているのは無理もない。それをどうにかして説明すると言っても、これだけ時間がかかってしまう。しかも全部わかってもらえるとは限らない。
だから面倒くさいから「野山に行って虫でもとれ」というのが私の乱暴な最近の結論になっている。やっぱり体を使って外へ出ていると、ひとりでに言葉の問題点がわかってくる。
今の若い人は言葉や映像の世界に住んでいるから。それをどこで変えていくかというのは日常にある。